「ハラキリ女」の岩茶です。引っ越しました。ハラキリ&ガンとの闘病もすっかり昔話。日々楽しく、のびやかに。
二七日忌
ここ3週間ぐらいの動きは本当にノンストップな感じで、 おかげでペーパードライバーだから、と逃げている場合でもなく 「今、私が運転して行くしかない状況」の連続でした。 おかげで、最初の頃はどうやっても自分では入れられなかった我が家の車庫入れも、ペーパードライバー泣かせのゆるい傾斜や前の道路の往来にもめげることなく、できるようになりました。 5回に1回ぐらいは、結構いい感じに停められたりしますが、 5回に3回ぐらいは助手席側が空きすぎて、そちら側から玄関に入った方が楽、という実力です。 走行距離はいまだに200キロ未満です。 住民票も結局移し、いろいろ手続きを進めています。 (久しぶりに岐阜市民に) やることがたくさんあって、本当にそれで忘れてしまうけど、 ふともう少し、できたことがあったのでは、と思うと、落ち込み涙が出てきます。 ことに、少ない年金なのに、振り込まれた年金は公共料金や税金ぐらいにしか使われていませんでした。 もっと自分のために、使えばよかったのに。 がまんしなくても、よかったのに。 父の性格はわかっていたから私がもっと言ってあげるべきでした。 かかりつけ医によると、最後の入院も「娘の意向を聞いてくれ」と言ったとのこと。 それが生き様だったにせよ、ちょっとつらいです。 絶対口に出さないけど、愛情をたくさん与えてもらった気がします。 本当にありがとう、との言葉しか返せません。 今回のことで、納得できないこともあります。 病理解剖の結果、父の死因は肺ガンということでした。 その放射線治療をしたのはうちからごく近い、通称「県病院」。 しかし昔のように気軽に利用できる病院ではなく、先進医療を行う地域の拠点病院になっています。 そこで放射線を35回受けましたが、父は通いでした。 それが終わったらすぐ、かかりつけ医に「戻され」ました。 経過観察はしないということでした。 かかりつけ医はいわばなんでも見ます的な先生で、当然呼吸器系の専門医ではありません。 どんどん病状が悪化していったのに、治療らしい治療はなく、自宅の酸素療法だけ。 結局かかりつけ医の関係が深い、家からは10キロほど離れた病院に入院しました。 この病院では最初、「社会的入院になるかも」と相当警戒されていました(裏でナースの会話を聞いてしまった。苦笑)。 最初、「うちでは見るギリはない。本来なら県病院が見るべき患者」であり、入院のメドは2週間と言われました。もちろん転院先を探してくれるとのことでした。 結局、父はこの病院の内科医の予想をこえて、悪化しました。 県病院は「肺ガンの細胞を放射線でやっつける」治療をしてくれただけです。父という個人に向き合ってくれたわけではありません。ちなみにそこで昔咽頭ガンの放射線治療もしており、耳鼻科は最近まで経過観察に定期的に通っていました。 今の制度上、どうしようもないことかもしれません。 病院にとって社会的入院は困るのもわかります。 しかし、父のように「社会的入院」になりそうな患者でも、結局は末期ガンだったのであり、ギリギリまで自宅でがんばったために、入院してからはあっという間でした。 こういうガン患者もいるんです。 その分、近所の方や、介護のケアマネさんやヘルパーさんにはいろいろよくしてもらえました。だけど、元々介護が必要になったのは病気があったからであり、その面でのフォローは十分ではなかった気がします。 県病院は救急病院であり、もしかして、父がどうしてもつらくなり、救急車を呼んでいれば入院できたかもしれません。(そこに父の、最後まで自分でがんばりたいという意思があったわけですが) そもそも「ガン末期だからこういう経過をたどり、急速に悪くなる可能性もある」と一言情報を伝えておいてもらえれば、と思います(まあ、観察しないんですからわからないのかもしれないのですが)。あまり父の通院に付き添ってあげられなかったので、今となっては、どうしようもないのですが(昔の人なので、あまり先生にいろいろ聞かない) もしもあの病院だったら、クルマで駆けつけても5分、臨終に間に合ったかもとも思うのですが、今どんなに思っても仕方がないとあきらめるしかありません。 あれでよかったのか、と聞いても 写真の父はただ笑っているだけです。 スポンサーサイト
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もう十年単位でクルマの運転していない、「優良ドライバー」がですよ。
毎日、毎日、必要に迫られ、運転しているです。車庫入れ、一発できまった試しがありません(笑) 今日は月曜、貴重な平日。岐阜市の事務所でさっさと手続き終わりましょうって乗っていた。 一応書類や手続き関係がすんだやつもあったんだけど。 うーん、父は途中で本籍地を今の岐阜市に変えていて、その前は隣の岐南町にあったんだよ。 銀行持って行ったら、それではだめなんだって。 えっと、岐南町役場ってどのあたりだっけ?ってどうもあやふやなのでいったんうちに帰って調べる。(ナビは付いていないので) なんとか岐南町役場に行って(JAとつながっているのがすごい)、父の生まれたときからの戸籍を取り寄せた。 なんだか冊子状態の戸籍。 さすがにじいちゃんばあちゃんの名前は知っていたけど、 ひいおじいちゃん、濱之助。(養子さん) そのおとうさん 勇左衛門。その妻の母、嘉永5年生まれ。今実家がある町内からお嫁に行ったことがわかった。 そのおかげでうちが、当時は「稲葉郡南長森村」っていったのも知ったよ。 うーん、じっくり読むと面白いかも。 父が生まれたのは(病院?)実は岐阜市内だったということもわかった。 だけど、そのあとアポを取っていた行政書士さんがやってきて 金融機関用に同じ2つの役所をまたにかけた原戸籍&除籍簿がもう一通いるんだと言われ、ショック。 でも今度は行政書士さんがそろえてくれるそうです。ホッ・・・ やっぱりプロに頼むべきですよね。 まだ相続人が私だけでよかったよ。ほんと。 |
父が14日早朝に亡くなりました。
4時半頃、病院から脈が弱くなっているという連絡を受けて、急いで行きましたが 間に合いませんでした。 病理解剖の結果、末期の肺ガンのほかに、胃にもガンが見つかったとのことでした。 骨転移も進行していました。 延命措置を希望しなかったので、悪くなってからは少しあっけなかったのですが、最後は本当に苦しそうだったので、これで少し楽になったのでは、と思っています。 「死んだら、火葬場へ直送してくれ」と言っていましたが、さすがにそれでは私の気持ちの整理がつかず、親族と最後に本当によくしてもらった、近所の方々を呼んでの家族葬にしました。 そんなわけで一部の人にしかお知らせしない形になってしまい、申し訳ありません。 部屋の日めくりカレンダー(立たないと、めくれない)は5月17日で止まっていました。 テレビ台にある、積み木のカレンダーは6月3日で止まっていました。 一人暮らしをさせて、しかも遠くに住んでいて、してあげられることのほんの少ししかしてあげられなかったけど、最後の最後まで自宅でがんばっていました。入院して少し気がゆるんだのかもしれません。最後に父のひげそり(&鼻毛切り)をしてあげられてよかったです。 しばらくバタバタしますが、落ち着いたらまたいろいろなところに顔を出したいと思いますので、そのときはよろしく。 |
2日目
私が食べさせたお粥の量が多かったらしく、細くなっている気管に入ってしまい、 一時意識不明になりました。 救急措置でなんとかもちなおしましたが、もう食事は無理だろうということに。 酸素もかなり送っていても足らないようです。 予断を許さないので、急遽和光の自宅に戻り、仕事をするためのPCや着替えを取りに行ってきました。 今日の夜に行ってみると、さらに悪くなっていました。 ひげを剃ってくれだの昨日まで言っていたのがウソのようです。 ほとんど目を閉じたままで 反応はにぶく、ただうなずいたりするだけ。手足もすごくむくんでいます。 積極的な延命措置はしないことを選択したので、人工呼吸器などはつけません。 主治医からはモルヒネ投与を提案されたので、受け入れました。 父のように抵抗力がなくなっていると、その影響で亡くなるリスクもあるらしいのですが、これで少し楽になってほしいです。 決して弱いところを人にみせなかった、頑固な父が 「えらい、えらい」(体がつらい)と言い続けています。 こんな父を見ているのがつらいです。 「お父さんは十分、がんばったよ」、と声をかけてきました。 |
父の入院と、車の納車など、いろいろてんこ盛りにあった長い1日だった。 車庫入れの特訓もした。 (見かねて、近所の父と仲のいいおじさんが 「うちで借りている駐車場、あいているとき、入れていいよ」と言われた) 今日一番、おもしろかったこと。 父親がなぜか持ってきていた鼻毛切用はさみで、父親の鼻毛を切ったこと。 なんで入院先まで鼻毛切はさみ??? 先が丸くなっているから危なくないそうだけど 入院していきなり「鼻毛」? 伸びているのが気になっていたんだろうな。 少し、落ち着いてそこまで気を配れるようになったのがうれしかった。 しかし、持ってきていたはさみは4本ほど。 他にどんな用途別なんだろう?? この病院は2週間をめどに退院するようにいわれているけど、 がんばって、いい転院先を見つけたい。 |
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